2016年9月30日金曜日

「今こそ、教育実践に共感と科学を」―茂木俊彦先生追悼


 茂木俊彦先生が亡くなられて1年。以前書いた追悼文をここに。少し長いですが…
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「今こそ、教育実践に共感と科学を」―茂木俊彦先生追悼
 

  元全障研全国委員長で、東京都立大学の総長を務められた茂木俊彦先生が、2015年9月25日に亡くなられた。茂木先生は、大学院生時代に東京都文京区の不就学児の実態調査に携わり、東京都の希望者全員就学、そして後の養護学校義務制に連なる運動に参加した後、広島大学、立正大学、東京都立大学、桜美林大学に勤務された。『講座障害児心理学』(編著、全障研出版部)、『障害児と教育』(岩波新書)、『子どものためのバリアフリーブック―障害を知る本』(監修、大月書店)、『受容と指導の保育論』(ひとなる書房)などの他、多数の著書を残されている。
 筆者の手元には、茂木先生のサインが記された本がある。2012年に北海道支部夏期学習会で記念講演をお願いした折、すでに読み終えてたくさんラインが引いてあった『子どもに学んで語りあう』(全障研出版部)を釧路から持参し、サインをお願いした。茂木先生が笑顔で「教育実践に共感と科学を茂木俊彦2012.9.1札幌」とサインしてくださったことが、つい最近のことのように思い出される。

 「教育実践に共感と科学を」という言葉。同名の著書が1984年に全障研出版部から出されている。また、2005年に千歳市で開催された第39回全障研全国大会では、入門講座において「今こそ、教育実践に共感と科学を」というテーマでお話いただいている。茂木先生にとって大切にされてきた言葉であり、多くの人たちに伝えたいメッセージだったのだと思う。
 筆者は、偶然なのだが、茂木先生がお亡くなりになる直前の昨年夏頃に、84年の著作を再読していた。その時の筆者は、学校での研究授業参観や巡回相談を重ねる中で、教育実践における「教師の思い」をどのように捉えたら良いかと悶々としていた。同書の第Ⅲ章に「教師集団の『思い』について」という表題があったことを思い出し、茂木先生のお考えを確認しようと再び手に取ったのである。

 昨今、鳥取大学の三木裕和さんらが指摘しているように、特別支援教育における教育目標・教育評価では、「客観性」(とされるもの)が強く要求されている。筆者がたびたび訪ねている特別支援学校においても、それが個別の指導計画や学習指導案の目標・評価に反映され、連動する日々の「実践」も変化しつつある。客観性が求められる背景には、特別支援教育は「エビデンス(科学的根拠)に基づいた指導・支援」(柘植雅義、『特別支援教育』中公新書)という考え方があり、そこには「教師の『主観性』の排除も意図」(三木他、『障害のある子どもの教育目標・教育評価』クリエイツかもがわ)されているように見える。

 教育現場では、「客観性」や「エビデンス」という言葉に対して、正面からは批判しづらい雰囲気があるが、至極単純に言うと「教師の思いや主観はそんなにいけないことなのか?」という問いが生じる。確かに、教師の誤った解釈や思い込みによる「強い指導」など、学校現場において教師の主観による課題を目にすることはある。しかし、教師の思いや主観を無くして、子どもとの共感的な教育実践が創造できるのか強い疑問が残るのである。

 筆者は、学生時代から「実践記録」を通して、先人の素晴らしい教育実践にたくさんふれてきたが、そこには教師一人ひとりの個性があり、教師の情熱や思いの強さが子どもたちの発達を促す豊かな教育実践につながっていた。また、発達の科学・理論を模索しながら、教師は子どもの発達を願う存在として、その「願い」が教育目標・教育評価などにも反映されてきたはずである。
 さて、茂木先生は、教師の「思い」をどのように語っていたのか。84年の著書「教師の『思い』でひっぱる」と題した項では、冒頭「教育目標について考えながら、私は終始、教師の個性という問題に思いをめぐらせていた。」という文章から始まる。その背景には、「すぐれた実践として人びとの感動をよび、教訓を与えてきたものの多くが、その実践を担った教師の教師としての個性を色濃く反映したものであることにあらためて注目していたから」とし、「あれも、これもできるようにさせてやりたい、それらができるようになったら、この子らはどんなにか幸せだろう、という教師の思い」が「子どもの学ぶ力を育てる必須の条件である。」と記している。

  この茂木先生のお考えは、前掲『子どもに学んで語りあう』においても引き継がれており、「子どもの思いと教師の『このように分かってほしい』『このような子どもであってほしい』といった願いを重ね合わせながら、さしあたりの教育目標を言葉であらわすのです。」としている。やはり、教師の思い(主観)は、決して排除されるものではなく、反対に教育目標・教育評価の設定にあたって積極的に位置づけられるべきものとしているのである。

  さらに同書では、「教師は子どもと共感関係を成立させながら発達を支援し、子どもの内部にある力を引き出しつつ、その子について知り、理解し、共感と信頼関係をさらに深めていく」仕事と規定している。

  筆者は、「教育実践に共感と科学を」という一つの言葉が、「科学」の前に「共感」が置かれていることにも注目したい。そして、共感が「共に感じる」という意味であるならば、その主体は、子どもであり、教師である。この「主体―主体」の関係において、一方の主体である教師の内面の在り様が子どもとの信頼関係づくりに作用し、発達を保障する実践の土台となるのである。今日、形式的に求められている「客観性」とそれに基づく実践の中に、子どもとの共感・信頼関係が育まれるのか、私たちは鋭く問わなければならない。

  では、科学とは何か。今日の「エビデンス」とどのように関係するのか。84年著書の第Ⅶ章「もう一歩総括をすすめる」の最後の部分には、次のような記述がある。

 「『教育実践に科学を』とは、科学の成果を創造的に適用するために科学することを意味すると同時に、実践の事実にそくして科学することをも意味しているのである。」

  次々と巷に氾濫する手法・技法をそのまま教育実践に適用するのは科学ではない。そのような科学と称されるものに従属する実践は、子どもの最善の利益にかなうものとはならない。

  いま、茂木先生が私たちに問いかけている。

  茂木俊彦先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

 (2016.1.11とだたつや)